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起業レポート - 釘子 明  陸前高田被災地語り部 くぎこ屋

釘子 明

正式名称
陸前高田被災地語り部 くぎこ屋
企業形態
一般社団法人

起業の動機

気仙沼の観光ホテルに勤務していた釘子さんは震災の時、昼休みを利用して、病院で喘息の薬をもらうために陸前高田に戻っていた。「激しい揺れのあと津波警報が鳴り、家の近くの公民館に避難しましたが、そこにも津波が押し寄せてきた。眼前には黒い津波が土煙をあげて家々をのみ込みながら迫ってくる。間一髪で坂道を駆け上がり、高田第一中学へ避難しました」。逃げ遅れた人を助けようと手を伸ばした消防団員が、目の前で流された。

 

体験したことのない激しい揺れと、押し寄せた大津波。その時、どう行動し、どうして犠牲になってしまったのか。生き残った人たちは、どのような地獄を体験し、どれほどの悲しみと痛みを負ったのか。 そして、絶望の淵で、ライフラインが絶たれたなかで、どのように励まし合い、助け合い、命を繋いだのか…。 大切な命を守るために、釘子さんは「震災の語り部」を主な事業として起業する。これまでボランティアや視察団など延べ約3000人に震災について語ってきた。

解決すべき地域の課題

高田一中の体育館には、約600人の避難者が集まった。ただし津波が直撃した市役所は孤立していて、統率すべき市の職員が一人もいない。このままでは皆が難民化してしまうと考えた釘子さんは、すぐに避難所本部を作り、自主運営することを決意する。

まず居住地区ごとに人数を数え、体育館を区割りした。飲み水確保のためにトイレと水道の使用を禁止し、校庭を掘って夜10時には簡易トイレ8基を完成させた。一人120ccの水と教室から集めたカーテンを配分した。その日より釘子さんは、全力で働いた。公平かつ弱者に配慮したルールを作って運営し、テレビに出て全国に支援を訴えるなど、物資の調達にも全力を尽くした。

「一人はみんなのために。みんなは一人のために」。その言葉を、避難所の標語にした。キッズルームでは中学生が自発的に幼児のお世話をし、小学生が先生になって毎朝のラジオ体操が始まった。
「近くの公民館の倉庫を改造し、誰でも入れる『復興の湯』を4月10日に作った。全員が仮設住宅に入った9月まで続けました。」震災から避難所が閉鎖されるまでの長い長い半年間。

かねてから写真が趣味だった釘子さんはその間ずっと、人々の暮らし、街の様子を、数千枚に及ぶ写真に収めていた。

ビジョン

陸前高田の悲劇を日本中に伝え、防災を真剣に考えてもらいたい

釘子さんは今、1時間半ほどかけて、陸前高田の街を案内し、当時を語る。その後屋内に移動し、撮り溜めた写真のスライドショーを見せながら、防災意識の大切さを説く。「この市民体育館は避難場所だったんです。近隣の200人以上の方がここに避難しましたが津波にのみ込まれ、命が助かったのは3人だけでした。91遺体がここで見つかり、その他の方は他の場所へ流されました。なぜ海に近い体育館が避難場所になっていたのかと、行政を責める方もいます。ですが私は質問します。『皆さんの街の避難場所に行ったことがありますか。そこは本当に安全ですか』と。ほとんどの方が答えられません。私たちも一緒。避難場所が本当に安全かどうか本気で考えたことがなく、その結果がこんな悲劇を招いた。だから防災をもっと考えてほしい。関東地震や東海沖地震、南海トラフ、地震と津波はいつ来るか分からない。これは他人事じゃないと知ってもらいたい。この震災を伝えることが、私が生き残った意味だと思うのです。」

 

今後、語り部事業はボランティア団体や企業、学校などから受託するほか、全国に出張も行う予定だ。旅行会社と一緒に防災学習を組み入れたツアーも企画する。 「修学旅行などにも対応できるように、まずは陸前高田で語り部をあと3人、雇用したい。そして、他の被災地と語り部のネットワークを作っていくことも、今後の目標です。」