iSB 公共未来塾-復興支援型-は、被災地のNPOと協働し、地域の福祉・介護分野での社会的企業を担う人材を育成、支援します。
「避難所では、みんなで慰め合って励まし合って、ポジティブに、楽しいことを一緒にして、日々を乗り越えていたんです。苦しみや悲しみは口にしなくても伝わりますから。その仲間かバラバラになってしまうのが寂しくて…これからもみんなか集まれる場所が欲しいという思いと、避難所に来てくれたたくさんのボランティアの方々との繋がりも絶ちたくないという思いかあって、『さんさカフェ』はできました。内海明美さんはそう語る。 震災の夜、宮城県南三陸町志津川高校避難所には500人を超える人々が押し寄せた。「高校のすぐ下の老人ホームか津波に襲われ、多くの方が亡くなりました。そこから上がってきたお年寄りもたくさんいて、大怪我をされていた方もたくさんいましたし、地獄のような光景でした。人数の確認や怪我の手当て、水、食べ物、寒さをどうしのぐか。町の職員さんもいないので、地元の人たちでなんとかしようという話になり、私もお手伝いしたいと申し出て、そのまま運営に入りました。」
その後、二百数十人での避難所生活か続いた。津波で夫を亡くした内海さんだったが、あらゆるお世話係を買って出た。 「人の出入りがすごく多かったんです。被災した方も、捜索に来た方も、ボランティアの方も、派遣されてくる職員の方も。その方 たちに状況の説明や仕事の説明をしたり、物資の配布や炊き出しのお手伝い、イベントのお世話などいろいろ。とにかく、あれをして ほしい、これをしてほしいという、あらゆる雑務に毎日対応していました。」 5月から徐々に仮設住宅への入居が始まった。どこに入居するかはすべて抽選。近所の人も、避難所で仲良くなった人も、バラバラになる。家族と家、仕事を失った人たちが、仮設住宅に入ると本当の孤独に陥ってしまう。 9月初旬、避難所は閉鎖になった。内海さんの2人の子供と夫の両親は先に仮設住宅に入居したが、内海さんは最後の1人を見送るまで避難所で暮らした。最後に残ったスタッフで、カフェの構想が持ち上かった。
「建物が何もないので、みんなが集まれる場を作って、温かい食事や飲み物を提供できたらいいなと。南三陸をずっと支援してくれていた『名無しの震災救援団』さんか『1煉瓦1万円基金』を設立してご寄付を募ってくださり、プレハブと厨房設備が買えました。煉瓦に似せたプレートに募金くださった方のお名前を書いて店内に貼りました。不安で一杯でした。被災地の真ん中で、普通の飲食店をやって果たしてうまくいくものかと。私も仲間も飲食業はアルバイト経験ぐらいしかない。地域の方やボランティアの方がお客さんですから、値段を高くするわけにもいかない。スタッフを経済的自立に導けるような収益が果たして上がるのかと。」 2012年1月29日、さんさカフエはオープンするやいな今大盛況となった。厨房が小さいため、お昼の食事メニューは「さんさカレー」と日替わりの「さんさ定食」の2種類(500円)だか、定食を楽しみに来る常連客が勢い。そのほかハニートーストやパフエ、産地厳選の挽きたてコーヒーなど、一つ一つのメニューにこだわりがある。
ただし現在、8人のメンバーに十分な給料を払えていない。そこで今、新たに準備している事業が、『さんさ弁当』の配達だ。 ご高齢の方や障がいのある方など、カフェに来られない方に、栄養バランスの取れた目替わりのお弁当を届けて、見守りと会話を行うことで、みんなに元気になってほしいんです。」と内海さん。当初は受注と生産を安定させるために工事現場や職場、学校などを優先して営業するが、近い将来に志津川地区の仮設住宅に告知し、お弁当の数と配達エリアを少しずつ増やしていく考えだ。新たな人手が必要になれば、障がい者やシニアの雇用も視野に入れている。またこの配食事業をさんさカフェだけでやるのではなく、地域の飲食店と連携し、共通チケツトを利用したバウチャー形式での展開も構想中だ。
「震災から2年経ち、訪れる人も少なくなり、寂しい思いをされている方がたくさんいます。お弁当を届けに人が訪ねてくることが、楽しみになってくれるといいなと思うんです。」