iSB 公共未来塾-復興支援型-は、被災地のNPOと協働し、地域の福祉・介護分野での社会的企業を担う人材を育成、支援します。
「娘が最後まで『高台に逃げてください』と言い続けたのは、みんなの命を守りたかったからだと思います。私たち夫婦はここで、その意志を伝えていきたい。これからどこで地震かあるか分からない。海が近ければ津波が来ます。そのとき、何を置いてもとにかく高いところに逃げること。避難場所でも『ここで安心』でないんです。より高い場所に逃げられる地形でないと駄目なんです。慈恵園という老人ホームも避難場所でしたし、防災庁舎の屋上も、最後は逃げ場がなくなって津波にのみ込まれて多くの人が亡くなりました。流されたら終わりです。できるだけ高いところに逃げてほしい。ここに来てくれた人にそう伝えて、一人でも多くの命を守りたい。それが未希の意志を繋ぐことだと思います」。遠藤美恵子さんは、涙ながらにそう語る。
死者、行方不明者あわせて800人以上。家屋全壊は6割以上。町の中心部で15mを超える大津波に街を壊滅させられた宮城県南三陸町。町の中核病院である志津川病院は5階建てビルの4階まで津波にのみ込まれ、職員4人、入院患者67人が亡くなった。 想像を絶する大津波が押し寄せるなかで、町のスピーカーからは、防災無線で女性職員の声が流れ続けていた。
「6mの津波か予想されます」「異常な潮の引き方です。今すぐ逃げてください」「海岸付近には絶対に近づかないでください」「ただい ま津波が襲来しています。高台に逃げてください。ただいま津波か襲来しています…」。
そう訴え続けた女性は、遠藤さんの長女、遠藤未希さん。南三陸町役場防災庁舎は、3階の屋上の上まで津波にのみ込まれ、未希さんは行方不明になった。
未希さんの強く真剣な訴えかけを聞いて、多くの町民が高台に避難した。「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた」「緊迫した声が背中を押してくれた」。未希さんに命を枚われた人々の、たくさんの証言が残る。
「かけがえのない大切な娘か津波に流されて、私とお父さんとおばあさんが残ったんです。悲しくて、何を目標に生きていけばいいのかと思いました。ストレスで夜も眠れず、人と話せないような辛い日々が続きました。でもいつか娘か見つかったとき、自分の家に迎え入れてあげたいと思ったんです。この家は2階まで津波が来て全壊扱いでしたが、建て直すのではなく、自分たちで直そうと決めました。避難所からここに通いながら、たくさんのボランティアの人たちの支援を受けて、瓦礫や泥を出して。
家のなかがなんとか片付いた5月3日に、沖合で見つかった未希を迎え入れることができたんです。告別式にはとても多くの方に来ていただき、娘を送り出しました。そしてみんなが帰るとき、『こうやって沢山の人が来てくれる家を作りたい』と思えたんです。」
遠藤さん夫婦は、わかめ、ほや、帆立の養殖を主とした漁業と農業、半農半漁の暮らしをしてきた。そして震災前は、農林水産省のグリーンツーリズムの民泊の家に登録し、小中学生向けの農林漁業体験民泊の受け入れもしていた。南三陸町では近年この体験民泊の受け入れに力を入れていて、2011年は約100軒が登録し、5月には全国から本格的に受け入れる矢先の震災だった。当然、民泊の受け入れはなくなった。
遠藤さんの目標は民宿としての開業だ。ただしその認可を得るには、男女別にお風呂を2つ備える必要があるなど課題が残る。そこで当面は宿泊料を取らず、食事の提供と、農業や漁業の体験、遠藤さんか行うストレスケアの施術料などを有料で行う。
ストレスケアとは、身体の歪みをとって身体のストレスを解消し、健康状態を良くする整体術。遠藤さんは震災後、3ヶ月間の就業支援基金訓練の制度を使い、このストレスケア施術の民間資格を取得した。
「私自身、とても辛い時期にこのストレスケアを受けて楽になり、前向きな気持ちになれたんです。これは未希の家でも行いますが、一緒に資格をとった4人の仲間とともに仮設住宅を回り、南三陸のみんなが前を向いて生きられるようにしてあげたいと思います」。