iSB 公共未来塾-復興支援型-は、被災地のNPOと協働し、地域の福祉・介護分野での社会的企業を担う人材を育成、支援します。
「3月11目のその目、私はマイクロクレジットの創始者でノーペル平和賞受賞者のムハマド・ユヌス博士のセミナーに参加して六本木ヒルズにいました。そこで、あの激しい揺れが起き、みなで『何かしないといけない』と話し合い、私はその場で『被災者を支援するソーシャルビジネス(社会的事業)を行う会社を作る』と決めたのです。」
震災から1ヵ月後の2011年4月11日には、法人登記した。 震災の2週間後に石巻市に行き、炊き出しなどのボランティアを行いなから、職場を失い失業し、収入の見通しが立だない被災者が多数いることを確認した。そして被災者のために自分が作れる仕事は何だろうと考えた。
2011年11月より、被災他のNPOなどの協力のもと、仙台市の複数の仮設住宅と、青森と八戸の2会場で集団避難している女性を集め、「ピームーシー」というマスコットチャーム(ぬいぐるみ)の制作をスタートさせた。完成品はすべて500円で買い取る。
実は、河原裕子さんは20年以上、バングラデシュで国際支援を続けてきた活動家。学生時代にはユーラシア大陸2万キロを横断。結婚後は世界各国からホームステイの受け入れをし、留学生の1人に『僕の国にどうぞ』と言われてバングラデシュを訪問してから、河原さんの人生は激しく動き出す。
「人々の生活の酷さを目の当たりにして、何がしなくてはという気持ちか強くなった。そのうちに20万人が亡くなる巨大サイクロンが襲い、救援活動に加わったんです。凄惨でした。レスキュー隊が空から物資を落とすのですが、村長がそれを横流しして私腹を肥やす。村人は薬があるのを知らず、死んでいく。それを見て、自分たちの手でやらなくては支援はきちんと届かないと、知ったのです。」
1991年、河原さんは任意団体「雲母の海」(きららのかい)を立ち上げる。
「活動していたのはバングラデシュのなかでも最貧地区といわれる北ベンガルのクリグラムという地域。電気もガスも水道もなく、人々は自分の年齢も知らない。家は藁小屋で床がなく、ほぼ裸なので冬には凍死者が出る。そこで私たちは『牛の貸し出しプロジェクト』を始めました。女性10人を1グループにして母牛を貸す。牛は翌年、翌々年と子牛を産みます。そこで母牛と2年目の赤ちゃんを返してもらう。一頭はその人達の所有になります。母牛は次のグループに貸す。同様に羊も貸しました。そうして牛今年をみんなに持ってもらったのです。」
その他、子ども達の初等教育プログラムやヒ素汚染浄化活動など、バングラデシュで多数の貢献を行ってきた。
その河原さんがピームーシーに続く事業として目をつけたのが、ヘンプ(大麻)布だ。「ヘンプ布は日本では悪いものを寄せ付けないと考えられていて、神社や皇室では昔から神事の時には大麻の着物を着るんです。通気性に優れ、夏は涼しく、冬は温かく、肌に優しい。今、ヘンプ布製品はすごく人気があって、結構な値段で売られているんですよ。」ヘンプ栽培は農薬や化学肥料を必要とせず、環境にも身体にも優しい素材として世界的に人気が高まっているという。ちなみに産業用ヘンプは繊維質が多く、向精神作用をもたらす化合物かほとんど含まれていない。
「日本では栽培できないので、バングラデシュで栽培し、織物工場で布にして日本に送り、仮設住宅の女性が縫製して製品にします。まずは枕カバーやシーツがいいですね。それをグラミングループのネットワークや、私が持っている76の大使館のネットワークを使って、世界に販売していきます」。
バングラデシュでデング熱にかかり、免疫力が落ちて癌を発症。余命4ヵ月と診断されたのが10年前のこと。病院を抜け出し、家にも帰らずにバングラデシュに行き、そのまま活動を続けて今まで生きてきた。「病院に行っていないので、治ったかどうか分かりませんが、毎日、一生懸命生きています。」
バングラデシュの貧困を救い、被災他の人々に仕事と生きがいを与え、世界中の人々が『支援』という付加価値のついた商品にお金を払う。みなが幸せになれる支援の輸が、生まれようとしている。